プロフィール

幼少期|「人様に迷惑をかけないように」と育った私

1982年静岡県生まれ。

不妊治療や死産で子宝に恵まれず、子どもは諦めていた両親の元にやっと生まれた第1子。1人っ子で育ちました。

母方の祖母と同居。母は祖母の言う事が絶対でした。

幼い頃の私は、よくおもちゃをねだって床に転げ回って泣きわめいていました。
母と祖母は「泣くのはやめなさい」「静かにしなさい」と言い聞かせました。

「こんな子供どもにだけはなってほしくなかった。恥ずかしい…。」

いつも私の気持ちは受け止めてもらえず、私の気持ちより、人様にどう見られるかの方が大事なんだと複雑な気持ちでした。

好奇心旺盛だった幼い私に、母は事ある毎に
「人様には迷惑をかけないように。」
と言って育てました

学生時代|寂しさを埋めるように“幸せな家庭”を夢見ていた

3歳で祖母が他界し、3人家族になりました。

そして、9歳の時、警察官の父が職場で倒れ、そのまま他界。

何の前触れもなく、母1人子1人。2人きりになってしまったのです。

1人で留守番する事が日常になり、

ふと、
「みんな死んじゃうのかな…」

唯一の家族である母も、いつかいなくなってしまうのでは…と心細くなったり、
生活に活気がなくなってしまった事に、寂しさを感じていました。

友達の家に遊びに行くと、
両親が揃っていたり、
兄弟もいて、
祖父母もいて…

賑やかで、

「私もこんな家で暮らしたいなぁ」

と大家族を羨ましく思いました。

母は仕事から帰宅後すぐに夕飯を作り、
「自分はいいから」
といつも子ども優先でした。

母は優しかったけれど、
いつも疲れて活気がなく、
食事中はほぼ会話のない家庭でした。

進路相談をしても、

「お母さんは分からないから、自分でなんとかしなさい」

……。

何不自由のない生活をさせてもらっていたけれど、
受け止めてもらう事のない寂しさと、
退屈なこの家に一生暮らす物足りなさを感じていました。

外に出れば、
もっと楽しい事があるのではないか…。

次第に、
早くこの家から出たいと思うようになりました。


20代|やっと見つけた“安心できる居場所”

絵を描く事に興味があり高校は美術高へ進学。

美大へ進むことが当たり前の環境だったので、
希望通りの美大へ進学し、実家を出て一人暮らしが始まりました。

大学生になり、すぐに出会った彼はよく話す人でした。

顔が筋肉痛になるくらいよく笑って、
お互いの事をよく話しました。

私の寂しさを埋めてくれる人だったのです。

出会って半年で妊娠。

学生結婚。

大学2年生、20歳の時でした。


20歳|“良い母親”になろうとして、自分を見失っていった

これからママになるというのに、
学業との両立は無理だ!

ママになるんだから諦めよう。
母に専念しよう。

大学は中退し、
学生から急に母になりました。

つわりが酷く、
寝込みがちで買い物に行くのがやっと。

成人式は切迫早産で入院。

同級生は、
振袖を着て成人式に出たり、
大学を卒業して社会人になって行くのをみて、
とても眩しく感じました。

長女出産。

里帰りから戻って3人家族になってすぐの事でした。

夫の浮気が発覚したのです。

心臓がドクドクと高鳴り、
手足は震え、
目の前が真っ白に…。

私達の幸せはこれからだというのに!

なぜ?
どうして⁈

全く理解できなかった。

認めたくなかった。

一瞬にして先が真っ暗になり、
逃げ出したかった。

私はすぐに荷物をまとめて、
離婚するつもりで再び小さな長女を連れて実家へ駆け込みました。

夫が迎えに来たものの、
帰る気にはなれませんでした。

その時、母が言いました。

「あなたはお父さんを亡くして寂しい思いをしたでしょ?
子どもにもお父さんがいない寂しさを味合わせるの?」

……。

「もう母親なんだから、子どものために我慢しなさい。」

あぁ、
そうだった。

私は母親なんだ。

母親なんだから、
我慢しなければならない。

長女に母乳をあげながら涙が溢れ、
涙で長女の小さな頬が濡れていきました。

「ママなのに笑ってあげられなくてごめんね…。」

私の気持ちなんかより、
子どもの幸せを守らなければ!

こうして、
自分がやりたかった事や、
悲しみにも蓋をして、
母として生きる事を決めたのです。


30代|“母親”として生きるほど、自分が空っぽになっていった

一人っ子同士の夫婦だった事もあり、
兄弟への憧れから次女、三女を授かりました。

三女が幼稚園に上がる頃、
私はやっと仕事を始めました。

同級生は、
社会人として既に活躍し、
独身を謳歌していたり、
キャリアを積んでいるのが眩しく見えました。

友達はみんな遠い世界に行ってしまった感覚でした。

私はお迎えがあるから、
近所で、
短時間で、
パートを始めるも、

特にやりたい事ではなかったのですが、
子どもの為、
生活の為に必死でした。

段々と子ども達の習い事にもお金がかかり、
仕事を変えたり、
増やしたりしながら、

3人の子育て、
仕事、
子ども達の送り迎えの合間に家事をして…

分刻みのタスクをこなすので毎日が精一杯。

帰宅すると23時を過ぎる日もありました。

私は子どものためだけに生きていました。

夫は後回し。

自分の事なんて、
もっと後回し。

それでも、
すくすくと成長する子ども達の活躍だけが支えでした。


30代|“幸せな家庭”を求めるほど、夫婦はすれ違っていった

その子ども達の成長を、
夫婦なのに一緒に喜んだり味わったりした感覚はなく、

むしろ、

「学生の本分は何だ?勉強だろ!習い事に金かけ過ぎだろ。」

と夫。

やりたい事をやってる夫に、
なぜ子ども達が今やりたい事を応援できないのか?

と、
すれ違いが生じていきました。

将来のために勉強だと言い張る夫と、

子どもの今だからやりたい事を精一杯頑張ってほしい。

という私との価値観が対立し、
喧嘩が絶えなくなりました。

夫は子ども達の習い事には協力的ではなく、
ほぼワンオペ。

理解があって、
協力的で、
一緒に子ども達の成長を見守り共有できる夫婦が羨ましくてたまりませんでした。

なぜうちはこうなんだろう…

「夫さえ変われば、うちは幸せなのに!」

今思えば、
夫は夫なりに子ども達を大切にしていた事を、
その時の私は一切受け取れなかったのです。


40歳目前|「私だけが犠牲になっている」と感じた産後クライシス

3人の子育てが落ち着いて、
コロナ禍で生活や家も変わった事で4人目を授かりました。

三女から13年が経っていて、
また赤ちゃんをこの手に抱けるんだという喜びと、

三女の手が離れてやっと自分の番が来たのに、
また子育てが振り出しにもどった感覚が入り混じって複雑でした。

13年振りの出産。

歳を重ねた分、
身体は思うようにならず、
心もずっとモヤモヤしたままでした。

かわいい我が子の寝顔を見ながら幸せな気持ちになる反面、
夫の労いはなく、
口を開けば
「仕事が忙しい」
ばかり。

私は何度、
自分の人生を諦め、
子どもの為に生きてきたのか…。

夫は何も変わらないのに…。

私だけが犠牲になっている気持ちが湧き出てきました。
結婚してからの夫への不満が沸々と湧き出し、
ある日、全てを夫にぶつけたのです。

夫に全てを受け止めてほしかった。

理解してほしかった。

支えてほしかった。

一緒に子育てがしたかった。

私はずっと我慢していたのです。

ずっと、
自分なんてと、
後回しにしていました。

気づいたら、
私は何がやりたいのかも分からない。

何が好きなのかも分からないくらい、
自分が何なのか分からなくなっていました。


40代|別居、不倫、そして人生が崩れていった

夫は私の湧き出した感情を受け止めきれずに、
家を出ました。

別居生活が始まったのです。

まだ生まれたばかりの四女を置いて、
出ていく夫が信じられませんでした。

何度かふらっと帰宅する夫とは会話が成り立ちませんでした。

口も聞きたくなくなりました。

そのうち、
連絡が途絶え、
生活費もストップしました。

夫がたまにふらっと帰宅した際、
勘が働き、
夫の財布の中身や荷物をチェックすると
「黒」
だと理解しました。

あの時と同じように
心臓がドクドクと高鳴り、
手が震え、
底が抜けるような絶望感に襲われました。

またか…。

悲しみと怒りが込み上げ、
もうどうしたらいいか分からなくなっていました。


40代|別居、不倫、慰謝料請求…壊れそうな心でもがいていた

「不倫」と検索すると探偵の広告ばかり。

「今は冷静に証拠を掴みましょう」

といった文言ばかりが目につきました。

とにかく、
夫が娘に会いに帰宅する度に証拠集めをしたのです。

そして、
意を決して探偵に調査依頼をしました。

夫のリュックにGPSを仕掛け行動調査。

女の家に通い詰めている事が分かりました。

まだ1歳のかわいい我が子を置いて、
夫は女と、
その子どもと一緒に過ごしている事を知り、
足がすくみました。

1人になると勝手に涙が溢れて前が見えなくなりました。

それでも、
子ども達の前では平然と暮らしていました。

また次の週末もGPSは女の家へ…。

居ても立っても居られず、
四女を連れて散歩に行く足が神社に向かっていました。

「神様…。助けて…。」

心はズタズタに引き裂かれて泣いているのに、
あどけない小さな娘の前では笑顔でいようとすると、心が張り裂けそうでした。



40代|“正しさ”を証明しても、苦しさは消えなかった

弁護士に依頼し、
相手女性に不貞行為の慰謝料請求をする事にしました。

相手方と何度もやり取りを繰り返し、
時間もお金もかけて相手方から100万円が通帳に入っても、
何も気は晴れなかったのです。

相手女性は、
お金は渋々支払いましたが、
一切謝罪をしなかったのです。

そして、
夫からは

「○○さん(女)に何したんだ!」

「金を巻き上げるなんて最低だな!迷惑だろ!謝れ!」

と怒鳴られ、
生活費も支払わないまま…。

こんなはずでは…。


40代|「なぜ私の人生こんなに上手くいかないの?」心が崩れ落ちた成人式の日

そんな最中、
長女が成人式を迎えました。

長女の晴れ姿の写真は撮りに来たけれど、
それが終わるとそそくさと女のところへ帰って行きました。

私の成人式は切迫早産で病院のベッドの上だった…。

あれから20年。

私はずっと、
ずっと、
家族のために頑張ってきた。

長女が成人式を迎える晴れの日なのに、
なぜ私はこんなにも不幸なんだろう…。

なぜこの20年を家族揃ってお祝いしたり、
夫婦でお互いに労いあったりできないんだろう…。

なぜ笑っていられないんだろう…。

なぜ私の人生こんなに上手くいかないんだろう…。

なぜ?
なぜ?
なぜ⁈

誰にも気持ちをぶつける事ができず、
この苦しみから抜け出したかった。

ふと鏡を見た時、
悲しそうに疲れ切っている自分の姿を見て、
涙がこぼれ落ちました。

もう限界だ…。

「誰か助けて…。」


40代|相手を変えようとしていた私が、自分と向き合い始めた

藁をも掴む気持ちでカウンセリングを受けました。

カウンセリングでは、
これまでの苦しみ、悲しみやドロドロした感情全てを吐き出す事ができ、
何を話しても受け止めて理解してもらえる安心な場所でした。

話を聞いてもらう中で、私はずっと
「分かってほしかった」
「愛されたかった」
「大切にされたかった」
そんな想いを抱えて生きてきたことに気づいていきました。

自分軸で生きていなかった私
に気づかされたのです。

私は、
離婚を見据えて転職する事にしました。

今まで法人保険の営業をやっていた事や、
自身の慰謝料請求の経験を元に、
同じように苦しむ人の力になりたい。
そんな想いから調査会社に就職しました。

実際にたくさんのご相談を受け、調査によって事実が明らかになる場面にも立ち会いました。
ですが、真実を知っても、人の心の苦しみが終わるわけではありません。

むしろ、現実を突き付けられ、不安、怒り、悲しみ、自分を責める気持ちは強くなり
「私は愛されてはいなかったんだ」
「私には価値がないんだ」
そんな風に、女性たちは自分自身を深く傷つけていました。
そして、それは
かつての私自身でもありました。

そう気づいた時、必要なのは「事実を暴くこと」だけではなく、
傷ついた心に寄り添うことだと思うようになりました。


今、苦しみのどん底にいる女性には、カウンセリングこそ必要な事だと確信し、
3ヶ月で退社しました。


40代|止まっていた心が、少しずつ動き始めた

カウンセリングや心理学を学び始める中で、私は少しずつ「自分」を取り戻していきました。

ずっと誰かのために生きて、自分の気持ちを後回しにしてきた私が
「本当はどうしたい?」
「私は何を感じてる?」
そんな風に自分の声を聴けるようになっていったのです。

夫の不倫は枝葉の出来事で、
自分の人生を生きていない事が根幹なんだと気づきました。

徹底的に自分を大切にして、
自分と仲良くなって行こう。

自分が心地よい事、
やりたい事にフォーカスしていると、
段々と楽になり、

気づけば、止まっていた人生が、少しずつ動き始めていました。


今|「あなたの人生は、ここから取り戻せる」

やりたかったことの一つに、
学生時代に途切れた「絵を描くこと」がありました。

無心で絵を描く時間を
「楽しい」
と感じられる自分がいる。
心に余白ができ、白黒だった毎日に少しずつ色が戻ってくる感覚がありました。

自分の感情に寄り添い、

「私は本当はどうしたい?」

を問い続ける中で、

少しずつ、
自分の足で歩き始められるようになったのです

今もまだ人生の途中です。

それでも、

“誰かのため”ではなく、
“自分の人生を生きたい”

と思えるようになった事は、
私にとって大きな変化でした。

だからこそ、
かつての私のように、

夫婦問題やワンオペ、
報われなさの中で、
自分を見失ってしまった女性に、

あなたの人生は、ここから取り戻せる

という想いで、
カウンセリングを届けています。

もし今、あなたが一人で苦しんでいるなら、もう一人で抱え込まなくて大丈夫です。

あなたも私と一緒に、人生の主導権を取り戻していきませんか?